日本を狂犬病の清浄国にした二人のキーマンと無名の人々

日本を狂犬病の清浄国にした二人のキーマンと無名の人々

取材・文/柿川鮎子 写真/木村圭司 前回、約4000年もの間、人類は狂犬病と戦ってきた歴史を紹介しました(人類と狂犬病の果てしない戦い なぜ今、狂犬病予防なのか)。発症すれば致死率100%で、現在でも世界中で約5万5000人が狂犬病で亡くなっています。そんな中、日本は世界で8カ国しかない、狂犬病・清浄国のひとつです。なぜ、日本は狂犬病を克服できたのでしょう? そこには狂犬病と戦った無名の人々と、二人のキーマンの存在がありました。 明治時代、警察官の業務を記録した官報には「狂犬」という言葉が繰り返し、掲載されています。狂犬病で狂暴になり人を襲うようになった犬を、警察官が撲殺処分した記録です。 告示第五十四号、麻布区狂犬病撲殺と掲載されています(国立国会図書館アーカイブズ) 市民の命を守るのが警察官の役目とはいえ、狂暴化した狂犬病の犬を撲殺するのは大変危険な仕事です。江戸時代まで、日本では犬を個人が飼育する概念がなく、「里犬」として地域に存在していました。明治時代になって、里犬の多くは所有者不明の野良犬となり、野良犬の間で狂犬病が広がると、警察官が一頭ずつ殺処分していったのです。 ■狂犬病で殺処分した犬のために慰霊塔を建立 狂犬病で殺処分した犬のために、各地で慰霊祭が行われました。人間の命を奪う狂犬とはいえ、警察官による殺処分を哀れに思った市民は多く、特に処分数が多かった神奈川県では、供養塔や慰霊塔が建立されたり、あちこちで慰霊祭が開かれました。 昭和3(1928)年、横浜市鶴見区の総持寺では巨石の慰霊塔が建立されました。神奈川新聞の記事によると、僧侶や警察関係者のほか、多くの市民が参加して、建立式典が開催されました。建設費用などを募金するため、地元の洋裁学校の生徒が、子犬の陶器製マスコットを作成して、人気を集めたそうです。 明治時代、横浜市には外国人居留区があり、海外から持ち込まれた猟犬から狂犬病が広まりました。横浜市内では他府県に比べると、狂犬病の被害は多く、警察官による殺処分の頭数も多かったのです。警察官に殺処分される犬の様子を身近に見ていた横浜市民が、自発的に資金を集めて、市内各地で慰霊塔を建立しました。 多摩動物公園にある動物慰霊塔では、花とともに動物の写真も ■死に至る病との戦いの歴史

サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

0コメント

  • 1000 / 1000